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代表プロフィール

家業ではなく
建築の道を選ぶ

左:母校、相川中学校 右:生まれ故郷の十三浜の海岸

アワビやウニ、わかめなどの養殖に代々携わる家の長男として生まれました。家業を継ぐことを期待されましたが、それが嫌で、小中高の時はマンガ、その後、建築を志して、親の反対を振り切り上京しました。当時は昼間、地下鉄工事現場のバイトで学費を稼ぎながら、夜学の早稲田大学専門学校建築科に通いました。肉体的にはきつかったですが、充実した日々でした。

卒業後は、石川純夫さん率いる「マカンボ建築設計事務所」に勤務します。古材を活かした商業建築や住宅を数多く手がけているところで、大いに刺激されました。古材の調達を頼まれて実家経由であたってみると、古くていい建物がたくさん残っていることに気が付きました。気仙大工の流れを組む腕のいい大工の仕事も数多い。地元にいた頃には気づかなかった古い家の良さが見えて来たのです。「養殖で家を継ぐのでなく、建築の仕事でふるさとに帰れるかもしれない」という思いが沸き起こってきました。

職人に技術を学び
古民家に美しさを見出す

まずは仙台にUターン。地域の事務所・工場などの施設を設計する事務所に勤務の後、独立開業しました。29才の時です。大工がつくる家の確認申請用の図面を書く仕事が多かったのですが、そこで木造住宅の構法やおさまりなどの大工技術について多くを学びました。学校では教わらなかった世界でした。職人さんの元に足を運んで疑問をぶつけると、面倒臭そうにしながらも納得行くまできちんと教えてくれました。ありがたいことです。それを重ねていくうちに、地元の木をふんだんに使い、職人の技をふるった家づくりをしたいという思いを強くしていきました。

再生事例: 『うなぎの東海亭』

この頃、福島で古民家の移築再生、宮城の鳴子川渡地区で築200年の古民家再生の仕事を頼まれました。福島での仕事は、会津の山奥の古民家を移築して郊外型のレストランにリニューアルするものです。屋根に穴があいて潰れる寸前の古民家を、部材の一本一本に番付を振ってほぐし、それを新しい敷地で組み立て直して、壁をきれいに塗りで仕上げました。すると、古材の太い柱と梁組のあらわし架構が、目の覚めるような生命感を伴って生きかえり、まるでヨーロッパの古くて趣のある酒場のように生まれ変わりました。木が本来もつたくましい生命力と美しさに、この時からとりつかれてしまいました。

川渡の古民家は移築ではなく、家の歪みを直しての現地再生ですが、昔の棟梁の美的センスに心打たれました。思えば私自身、生まれ育った家も気仙大工が作った古い茅葺き民家で、近くには、今でも生活している民家がわずかながら残っています。仕事を通じて、改めて木組みの美しさを再認識しました。

良質な家づくりは
山や職人とのつながりから

私自身の住宅設計の方向性を決定づけてくれたものの中に、筑波大学の安藤邦廣先生との出会いと、先生の板倉工法があります。先生は、国産材を利用した木造住宅の生産システムを再構築する試みとして、住宅の産直システムの必要性を早くから言われていました。外材中心の木材流通、都市部における職人不足、生活様式などの多様化など、従来の生産システムでは簡単には対応できない状況の打開策を、木材の生産者と建て主が直接対話する中に探ろうとしていました。その双方を縁組させる仲人としての役割が設計者に求められ、また、産地の木材生産の状況を把握し、都市部で求められる木造住宅の質に応えられる木材を、産地に伝えるという役割も、設計者にはあると説かれていました。

その役割を担う形で、仙台と松島で3軒、安藤先生と板倉工法の家の仕事をさせていただきました。4寸角を主体とした架構に1寸の厚板をはめ込んだ板倉工法は、木材を骨太に使い、木材の持つ断熱性と調湿性を最大限に生かすことを狙った工法です。木材使用量は坪辺りおよそ0.7立方メートルで、一般木造住宅と比べると約2倍以上になりました。また、乾燥した厚板は通常の流通経路では入手が困難で、これを適切な価格に押さえるにはなんらかの産直方法が必要となることから、この3軒とも縁あって山形県の金山杉と金山大工による産直住宅の家づくりとなりました。

この時の経験からわかったのは、安価で良質の木材、特に葉をつけたまま伐採し、3~6ヶ月位放置させて乾燥させる葉枯らし乾燥材(主に杉、桧)を1軒分まとめて安価に確保しようとすると、設計者が直接山に行く必要があるということです。こちらの要望に応えてくれる生産者と、手間のかかる工事に意欲的に取り組んでくれる棟梁は、自分で探し出さないとコストと質がまとまりません。柱、梁の構造体の骨組みを化粧としてあらわして見せ、伝統構法の継ぎ手仕口もオモテに出てきますから、現代の手早く作ってしまう仕事より大工手間がかかってしまいます。大工さんの技術に負うところが大きく、腕に自信のある前向きな大工さんでないと受けてくれません。嬉しいことに宮城県内の何人かの意欲的な大工さん達とネットワークが出来、そしてまたその大工さんがやはり意欲的な左官屋さんをはじめとする職人のグループを持っていて、本物の木の家づくりができるようになりました。関わる職人さんたちは、「ホントはこんな仕事がしたかったんだ!」と言ってくれる人ばかりで、彼らと共に家づくりができるのは、設計者としても本当に幸せだと思います。

しかし、いくら素材の生産者、施工者とネットワークが作れたといっても、その価値を理解し、賛同してくれる建て主がいなければ一部の人たちだけのもので終わってしまい、輪は広がらないでしょう。そこで、志ある仲間とともに勉強会を重ね、1999年7月「杜の家づくりネットワーク」を立ち上げました。定期的にセミナーや森林見学会、建築現場見学会を開き、勉強と交流を重ねています。

震災でゼロからの再スタート
家を建てる人の気持ちに、より向かい合う。

その後、仕事の本拠地を生まれ育った北上町に移しました。相変わらず、仕事の依頼主の大半は仙台などの都市部に住む環境志向の人たちでしたが、本当は地元の人にこそ地産地消の家づくりをして欲しいとの願いからです。なので、仙台と行ったり来たりの日々が続きました。建築現場まで北上町から車で2時間近くかかることも多く、この当時、乗っていた車は36万キロ走ったところで動かなくなり、買い替えることになりました。

そして、2011年、東日本大震災を迎えます。当時の自宅兼事務所は目の前に海、背後には山という場所にありました。15メートルもの津波の直撃にあい、全壊流出。水が引いたあとには、一階部分のコンクリートだけが残り、その上の木造部分は跡形もありませんでした。すぐ近くの高台にある「相川子育てセンター」に避難所ができ、そこで集落の方たちと共同避難生活を送りました。

この時ほど、人のつながりをありがたく感じたことはありません。「杜の家づくりネットワーク」の仲間たち、東北大学、日本民家再生協会、職人がつくる木の家ネット、木の建築フォーラム…。数えきれない程の団体、個人から援助をしていただきました。ゼロからの再スタートでしたが、おかげで地元工務店協同組合の結束も深まりました。この時のつながりから生まれた建物も数多くあります。その一つひとつを、できるだけ、それを使う人の想い、土地の記憶に寄り添って作ってきました。家をつくる人の気持ちが、より理解できるようになった気がします。

当たり前のことを
続ける大切さ

震災を経て改めて思うのは、地域の素材を使い、地域の特性を理解し、地域の職人による施工で、住む人の願いを叶えた家づくりの大切さです。中央資本による全国一律の家づくりばかりが広まると、地域らしさが消え、その土地の富は流出し、地域の山は荒れ果てます。熟練した技能を必要としないつくり方は、それに携わる人の尊厳を失わせかねません。そんなことにならないよう、私は、素材生産者から職人、建て主まで全部つながるネットワークで、良質な材を地元で加工し地元の職人の技術で家を作り上げるという「当たり前のこと」をし続けていきたいと思います。

プロフィール

宮城県石巻市北上町出身
1978年 早稲田大学専門学校建築科卒業
    (株)郷設計事務所(東京)入社
1979年 (株)マカンボ建築設計事務所(東京)入社
1980年 鷲建築設計事務所(仙台)入社
1984年 ササキ設計室を開業
1990年 有限会社ササキ設計設立

所属団体

杜の家づくりネットワーク 代表 | 社団法人日本建築家協会(JIA) 正会員
日本インテリアプランナー協会 正会員 | 特定NPO法人日本民家再生協会 正会員
木の建築フォーラム 正会員 | 職人がつくる木の家ネット 正会員
社団法人宮城県建築士会 設計専攻建築士 正会員