私自身の活動の拠点は仙台においていますが、自宅も家族達も
南三陸の北上川河口の町、北上町といういなかにありそこで育ちました。
通える距離ではないので週末だけ戻る生活をしています。
親が漁師だったので、今も漁業権があり、季節になると
たまにはアワビ漁に参加することもあります。
建築を学んだ所は東京ですが、長男で家の面倒をみる為
Uターンしました。(その当時、いなかでは、それが普通でした)
模索しながら独立したものの、宮城の、それも県北の地域にあっては、設計の仕事が成り立ちませんでした。
住宅は、大工さんや工務店に頼むものであって、設計者はその下で建築確認の許可を取るだけ、というパターンがおおく
ユーザー自身直接、設計者に頼むという感覚も無く、まして、設計料をなかなか理解してもらえません。
余計な出費であって、それを払うならタンスでも置いたほうがいい、という人が多くいました。
このままでは生活出来ないので仕方なく仙台に活動の場を移し、ゲリラ的に、仕事では、なんでもこなしました。
ハウスメーカーや建設会社の仕事も随分やらせてもらいましたがやはり、地元の大工さんや職人との仕事が一番好きでした。
それは納まりやら素材自体への無知もおこられながらも
一つ一つ納得できる形で指摘してくれ、何故その方がいいのかを
足を運ぶと面倒臭そうにしながらもきちんと教えてくれたからです。
それに自分の仕事に誇りと自身を持っていました。
この当時の人たちとは、今もネットワークを作っており
大切な戦力になっていたのは、他に、福島での古民家移築再生物件と
宮城の鳴子・川渡という地区で経験した200年位前の
古民家再生の仕事があったからです。
福島での仕事は、会津の山奥の古民家を移築して郊外型のレストランにリニューアルしたのものです。
廃村になった村の、カヤ葺屋根も穴があいて、つぶれる寸前のような民家でも、部材、一本毎に番付を振って移築し
壁をプラスター塗りで仕上げ、手を加えると、太い柱と梁組のあらわし架構が見事に生きかえり、西洋の居酒屋のように
変化してくれたのです。 木が本来もつたくましい生命力と美しさに、この時からとりつかれてしまいました。
川渡の古民家は移築ではなく、曲がりを直しての再生ですが、昔の棟梁の美的センスに、同じように感心させられました。
思えば私自身、生まれ育った家も気仙大工が作った古いカヤ葺民家で、近くには、今も、少なくなったものの
まだ生活している民家が残っています。仕事を通じて、改めて木組みの美しさを再認識した次第です。
■板倉工法との出会い
今、私自身の住宅設計の方向性を決定づけてくれたものの中に、筑波大学の安藤邦廣先生との出会いと
先生の板倉工法があります。先生は、国産材を利用した木造住宅の生産システムを再構築する試みとして
住宅の産直システムを早くからいわれ外材中心の木材流通、都市部における職人不足、生活様式などの多様化など
従来の生産システムでは用意に対応できない状況の打開策を木材の
生産者のユーザーが直接対話する中に探ろうとしていました。
その双方を縁組させる仲人としての役割が設計者に求められ、また、産地の木材生産の状況を把握し
都市部で求められる木造住宅の質に応えられる木材を、産地に伝えるという役割もあります。
そういう役割の中で、仙台と松島で3軒、先生と一緒に板倉工法の家の仕事をさせていただきました。
4寸角を主体とした架構に1寸の厚板をはめ込んだ板倉工法は、木材を骨太に使い、木材の持つ断熱性と
調湿性を最大限に生かすことを狙った工法ですが、木材使用量は坪辺り4石と、一般木造住宅と比べると
約2倍以上になり、また、乾燥した厚板は通常の流通経路では、入手が困難で、これを適切な価格に押さえるには
なんらかの産直方法が必要となることから、この3軒とも縁あって
山形県の金山杉と金山大工による産直住宅の家づくりとなりました。
この時の経験から、安価で良質の木材、特に葉をつけたまま伐採し、3〜6ヶ月位放置させて乾燥させる
葉枯らし乾燥材(主に杉、桧)を1軒分まとめて安価に確保しようとすると、設計者が直接山に行き
それに応えてくれる生産者と、手間のかかる工事に意欲的に取り組んでくれる棟梁は、自分で探し出さないと
コストと質がまとまらないと思います。
柱、梁の構造体の骨組みを化粧としてあらわして見せる工法をとることから
なるべく、金物を使わない伝統工法の継ぎ手、仕口も化粧で見せるやり方となるため
通常より大工手間がかかってしまうことから、大工さんの腕に負うところが大きくなります。
逆にいうと、腕に自身を持つ前向きな大工さんでないと受けれないと思います。
嬉しいことに宮城県内の地元にいる、何人かの意欲的な大工さん達とネットワークが出来、そしてまた
その大工さんがやはり意欲的な左官屋さんをはじめとする職人のグループを持っているのです。
そして「ホントはこうゆう仕事がしたかったんだ」といってくれる職人さんと現場を一緒に出来るのは
設計者としても意欲をかきたてられます。
しかし、いくら素材の生産者、施工者とネットワークが作れたといっても、その価値を理解し、賛同してくれるユーザーが
いなければ一部の人達でだけのもので終わってしまい、輪は広がらないでしょう。
そこで、有志の仲間とともに数年前から勉強会を重ね、1999年7月「杜の家づくりネットワーク」を立ち上げ
定期的なセミナーと、手がけている住宅に現場見学会を開き、手探りながら地域のユーザーや
施工者、設計者にも呼びかけ、参加頂いて理解を得るべく活動を始めました。
こういう動きは既に全国各地で行われているようで勇気付けられる反面、志を同じくするネットワーク同士の
情報交換なり、交流ができないものかと考えています。
宮城県県内の状況を見てみると、平成10年度の持ち家着工戸数のうち
大工や工務店が建築した家の割合は、47%、昭和60年度に較べると、18%下回り、半数を割り込んでいます。
逆にハウスメーカーの比率は、昭和60年度の20%から平成10年度には、34%にアップしています。
ますますその傾向は強まりそうですが、われわれ建築家はその中で何ポイント関われているのでしょうか。
もっと建築家が住宅に関わるべきと思います。今、住宅にリアリティが失われつつあり、商品化によって特定の敷地
特定の住み手との関わりが、作り手職人と者との交感が希薄になっています。
自然素材と職人の世界の見直しが懐古趣味に陥ることであってはいけないと思います。
そこから人間とものとの関係の本質をもう一度学ぶべきと考えます。
森林や製材所、材木市場を訪ね、国産材の流通の実態を肌で感じとること、そして
生産者から消費者までひっくるめたネットワークを完成させて良質な材を地元で加工し地元の職人の技術で
住宅を作り上げるという当たり前のことを実現していきたいと思います。
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